
【 アメカジの源泉 】
80年代のアメカジブーム、いわゆるインポートブームは、わたしにとって、70年代の幼少期に触れたたくさんのものが、あとからつながっていったものだったと思います。
幼少期に欧米文化に触れた話は以前のブログでも書きましたが、アメリカへの想いという意味では、小学生の頃に夢中になって見ていた「アメリカ横断ウルトラクイズ」の存在が大きかったですね。
毎ステージ、まったく環境の違う場所でクイズをしながらニューヨークを目指すこの番組は、アメリカのダイナミックさを存分に印象づけました。
日本の奥ゆかしさより、ビッグで派手な欧米文化のほうが、圧倒的にキラキラして見えていましたからね。
追い打ちをかけるように、マクドナルドなどの食文化や、「スター・ウォーズ」などの映画も入ってきていました。
いま振り返ると、知らないうちに欧米文化のシャワーを浴び続けていたわけです。
中学時代のヤンキー文化も、ルーツをたどればロカビリーです。
まぁ、わたしのように変形学ランばかりに目が行って、そこに気づかなかったケースもありますが、感度の高い同世代は、最初から分かっていたのかもしれません。
思えば、布石はたくさん投げられていたわけです。
ただ、その頃のわたしは、それらが全部つながっているなんて考えてもいませんでした。
【 すでにある情報の継承と進化 】
そんなバラバラだった欧米文化のピースを、ひとつのスタイルとして見せてくれたのが、当時のアメカジショップの店員たちでした。
当時は、ジャンルごとに方向性が定まっている人が多かったと思います。
原宿や青山界隈にいた、もともとヤンチャだった人たちも、目指す方向が明確でした。
ロカビリーならロカビリー。
ワークスタイルにアウトドア、バイカーやアイビー、パンクやヨーロピアンスタイルなど……
そういう人たちが、自分の好きなものを身につけている姿は、とても分かりやすかったですね。
もともと、MADE IN USAカタログや雑誌「POPEYE」から入ってくるインポートファッションの情報も、当時は生の情報に溢れていました。
映画もそうです。
ジェームズ・ディーンの「理由なき反抗」では、エンジニアブーツを履いています。
でも、当時のわたしは、そこには気づいていませんでした。
「理由なき反抗」といえば、リーのデニムや赤いドリズラーのほうに目が行っていました。
あのドリズラーは、たしかマクレガーでしたよね。
「乱暴者」のマーロン・ブランドもエンジニアブーツを履いていましたが、こちらは白黒映画ですから、昔の格好くらいの認識でした。
いまなら、そういうところにも目が行くのでしょうが、当時のわたしには、まだそこまでの知識がありません。
そうやって、映画や雑誌、ショップなどから入ってきた情報を、感度の高い中学生や高校生が、自分たちなりに消化していたんですね。
そして、古いものをそのまま再現するのではなく、別のものと組み合わせながら、自分たちのスタイルにしていった。
それが、わたしが見ていたアメカジだったのだと思います。
【 パーティとチーム 】
そして、ファッションだけではなく、遊び方や人間関係の中にも、新しい文化が生まれていました。
世間の大人たちがダブルのスーツでバブル期を謳歌している頃、付属高校の生徒たちがディスコを貸し切ってパーティを開いていました。
それを取り仕切っていたのが、初期のチームです。
他校の生徒にパー券をさばき、イケてる高校生男女が集まるパーティです。
これは、当時の高校生からしたら、ちょっとしたステイタスでした。
また、巨大なパーティになると、ビンゴゲームなどで、ルイヴィトンやハンティングワールドのブランドバッグが景品として当たったそうです。
高校生のパーティとしては、それなりの事業ですよね。
一方で、資金や集客力があっても、力の弱い学校がパーティを企画すると、他のチームから潰されていました。
こうしたチームが登場したあたりから、アメカジの華やかな部分だけではない、少し不穏なものも見え始めていたと思います。
当時、クラスの集まりで渋谷に行ったときのことです。
ちょっと目を離した隙に、同級生が宮下公園でカツアゲされていました。
やはり、渋谷には何か不穏な空気がありました。
そして、「渋カジ」という言葉が出はじめたのも、この頃だったと思います。
【 渋カジ到来と象徴するものたち 】
「渋カジ」は、どこかの雑誌が命名したと記憶しています。
DCブームも落ち着いた頃で、この新しい流行を雑誌メディアが街角スナップやアイテム紹介などで取り上げるようになりました。
それまで、いろいろな場所から入ってきていたアメリカの情報が、今度は「渋谷」という場所を中心に、ひとつのスタイルとして整理されていったわけです。
そして、雑誌やメディアによって「渋カジ」が体系化されると、渋谷の街には、いわゆる渋カジファッションがどんどん増えていきました。
象徴的なアイテムはいくつかあります。
ひとつは、ルイヴィトンやハンティングワールドのブランドバッグです。
初期のチームが付属高校内で結成されたのが始まりだと聞いていますが、親のブランドバッグを借りたり、買ってもらったりしていた人もいたそうです。
これは、単なるカジュアルファッションとの差別化にもなっていました。
もうひとつは、ヴィンテージ古着です。
たしか当時、リーバイスのデニムジャケットの1stが10万円弱、2ndが5〜7万円くらい。リーバイスのダブルエックスのパンツで、5〜10万円くらいだったと思います。
いまでこそ、資産価値がついているヴィンテージですが、当時は一部の人しか、その価値を感じていませんでしたからね。
もちろん、その価値を知らなければ買わないわけです。
ほかには、アヴィレックスのB-3が流行っていました。なぜだかブランドはアヴィレックスでした。
ただ、周囲の人はほとんど買っていませんでしたね。
レッドウィングのエンジニアブーツは黒レザーも人気でしたが、ベージュスウェードには、さらに格上感がありました。
たしか、ピンクドラゴンで31,000円くらいで売っていたと思います。
レッドウィングのアイリッシュセッターも大人気でしたね。
また、渋カジといえば、ジュエリーはゴローズですね。
いまはさらに大人気ですが、当時はゴローさんと仲良くなって、自分用にアレンジしてもらえることが最高のステイタスだったようです。身近な兄貴たちか、女の子が多かったみたいですけど……
また、レイバンのサングラスもありました。
ゴールドのメタルフレームの四角いパイロット型です。
すっかり忘れていましたが、これもマストアイテムのような存在でしたね。
そして、これらをヘインズの3枚パックの白いTシャツに合わせます。
今のTシャツと比べると、すぐ首がヨレヨレ、ダルダルになって、ひどいものでした。
こうして並べてみると、渋カジは単純にアメリカの服を着ていたわけではありません。
古着、インポート、ブランドバッグ、ジュエリー、ブーツ……
そこに、それぞれの人間関係や遊び方まで加わって、渋谷という街の中で、ひとつのスタイルになっていました。
あと、これはアイテムとは関係ないんですけど、姿勢がいい人が多かったですね。
天から引っ張られているような感じです。
ヒールの高いブーツを履いている人が多かったからでしょうか?
【 渋谷のカオス化 】
週に何度も渋谷の街をプラプラしていると、渋谷界隈を遊び場にしている人と、そうでない人の見分けが、なんとなくつくようになってきます。
すると、明らかに毛色の違う人たちが増えているんですね。
それは、渋カジが大きなムーブメントになった証でもありました。
新品の現行モノで仕上がった人。
雑誌からそのまま出てきたような、バンダナを頭に巻いた人。
B-3にヴィトンのバッグを持っている人もいましたね。
当時のわたしたちより少し年上で、渋谷を観光目的で遊びに来ているような人たちです。
一方で、明らかに恐い雰囲気の人も増えてきました。
これは、近郊の不良たちがヤンキーからアメカジへ移行していく過程で、オシャレでハイソな地元っ子やチームに対抗するように、渋谷へやって来ていた人たちだったのでしょう。
ただ、その頃になると、地元っ子やチーマーは、渋谷の街にあまり行かなくなっていました。
街っ子たちは、その頃には青山や西麻布、六本木へと遊び場を移していたのです。
そして、渋谷に残った不良たちは、高価な渋カジアイテムを身につけた人たちをカツアゲするようになっていきました。
それを「ボンバー狩り」などと呼んでいました。
これでは、うかうか着飾れないですね。
【 渋カジ後半戦 】
そんな渋谷の街ですが、高3の夏頃になると、また少し雰囲気が変わってきました。
今度は、再びアイビーライクな格好が増えてきたのです。
ラルフローレンのワンポイントシャツに、ちょっと太めの紺色のチノパン、あるいはマドラスチェックのパンツが人気でした。
足元はティンバーランドのゴツいモカシンや、BASSのローファー、ニューバランス、サッカニーなどです。
秋になると、そこに金ボタンのブレザーが加わります。
いよいよ紺ブレブームの始まりです。
そんな頃、雑誌「POPEYE」で、ある特集を見ました。
カリフォルニアの高校生らしき、陽キャの男女学生たち。
パタゴニアのフリースに、オークレー……いまはオークリーですね。
誌面では、フロッグスキンというサングラスをかけて、白いナイキのスニーカーを履いて、楽しそうにはしゃいでいました。
そのページを見て、わたしの中で、何かが終わったような気がしました。
わたしたちがアメリカだと思っていたものと、そこに写っているアメリカのリアルは、まったく別物に見えたからです。
そのとき初めて、わたしは気づきました。
自分たちはアメリカそのものを見ていたわけではなく、日本に入ってきたアメリカの断片を見て、それを自分たちなりに編集していたのです。
そして、それこそが、わたしが見てきたアメカジだったのかもしれません。
ただ、わたしの中では、この頃から少しずつ、日本で作られたムーブメントと、海外のリアルを意識するようになっていったのです。
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