
【 裏原宿 】
原宿のお店も、少しずつ売れる商品が増えてきました。
ある靴デザイナーが手掛けるTシャツは、フォト作品をそのままストリートへ持ち込んだような世界観が秀逸で、入荷するとあっという間に売り切れてしまいました。
また、そのブランドに付いていた赤いリボンの下げ札は、いつしかポーターの黒いバッグに結ぶのが、お客さんたちの間でちょっとした流行りになっていました。
そこへグレイトフル・デッドのドクロ(Steal Your Face)ワッペンを付けるのも定番で、その火付け役になったのは、近所のお店で働いていたデッドヘッズの友人です。
その頃の彼は、例の店から系列の古着店へ移っており、しばらくしたら仕事で渡米すると話していました。
また、原宿の裏路地には、94年から95年にかけて、少しずつ仲間たちの店が増えていきました。そして、それぞれがはっきりとした個性を打ち出しています。
気が付けば、各店がそれぞれ異なるカルチャーを発信し、路地ごとに個性を持つ、多文化の集合体としてエリアを形成していきました。
そして、この街は「裏原宿ブーム」と呼ばれる時代の頂点へ向かって、一気に加速していきます。
【 猿のアイコン 】
その頃、街の中心にあった、彼が働いていたあのお店も、次のステージへ進もうとしていました。
ある日、先輩と一緒に店へ立ち寄ると、オーナーの右腕である先輩が店頭に立っていました。
それまでもインディペンデントな企画として発売されたTシャツは人気を集めていましたが、いよいよショップのオリジナルブランドが本格的に始動したそうです。
そして、ちょうど、その第一弾の商品が入荷したタイミングでした。
そこに、ちょこんと並んでいたのは、猿のワンポイントをアイコンにしたブランドでした。
小さな猿のマークが入ったサンバイザーに、別注のジョージコックス。そして、もうひとつ(コーチジャケットだった気もしますが…)アイテムが入荷していました。
本来なら、もっと多くのアイテムが並ぶ予定だったそうですが、生産が遅れ、この日届いたのはこれだけだったそうです。
こうして、このブランドのファーストシーズンが幕を開けます。
この店のスタッフは、服飾を専門に学び、高い技術と知識を持つプロフェッショナルが集まっていました。
本格的なデザイナーズブランドを立ち上げることも、可能だったと思います。
それでも彼らが選んだのは、キャラクター性を前面に打ち出したストリートカジュアルでした。
それまでは、仲間たちが同じブランドや同じ空気感を身につけることで、大きな勢いを生み出していました。
しかし、このブランドは少し違いました。
キャラクターの存在感が強かったこともあって、仲間たちが身につけたわけではありません。
それでも、企画を手掛けた本人自らが、このブランドを着用して、表舞台に立ち続けたことで、その存在は一般へ広がっていきました。
この瞬間は、コミュニティの価値観が変わり始めた転換点だったように思えます。
それぞれのブランドは、仲間たちよりも、その先にいるブランドの支持者へとフォーカスするようになっていきました。
ここから、裏原宿は「仲間内のカルチャー」から、「世界へ届くブランド文化」へと姿を変えていったのです。
【 ランチの場所 】
毎日、原宿のお店で働いていると、昼ごはんを食べる場所は自然と決まってきます。
営業時間は12時から20時までで、昼食を取れるのは、たいてい15時前後でした。
その時間になるとランチ営業は終わっている店が多く、歩いて数十秒の弁当屋「天宝」で、サラダうどんだったり、ゆかりやシャケのおにぎりを買うことが多かったです。
たまたま昼時に時間が取れた日は、中華料理の「永楽」か、お米屋さんが営む定食屋「久保田」でランチをすることが多かったです。
永楽では、昔ながらの赤い縁取りのチャーシューが載ったラーメンと、チャーハンのセットがお気に入りでした。
そして、久保田のしょうが焼き定食は何よりも衝撃でした。
それまで、お店でしょうが焼き定食を頼んだことが無いほど、興味の無いありきたりな食べ物と思っていましたが、こんなに美味しいしょうが焼きを食べたことがありません。
そんなごはんもしょうが焼きも美味しい久保田では、例のお店のトップをよく見かけました。
会えば挨拶を交わす程度で、誰かと深く付き合うような雰囲気はありませんでした。
社内の人の話では、夜の集まりにも必要最低限しか顔を出さず、遅くまで仕事をしていることが多かったそうです。
その後、さまざまな会社のトップの方と接する機会がありましたが、本当に大きなことを成し遂げる人ほど、一定の距離感を保っている人が多いように感じます。
もしかしたら、この時点で、すでに別の世界へと目を向けていたのかもしれませんね。
【 マットレスのある事務所 】
いよいよ、そのお店で働いていたデッドヘッズの友人は渡米をすることになりました。
わたしは、粗大ゴミになるはずだった彼のマットレスを引き取り、原宿の事務所に置かせてもらうことになりました。
当時のわたしは、あまり実家に帰らず、ビブレの上にあったエグザスというスポーツジムでシャワーを浴び、ある時は仕事をして、またある時は夜遅くまで飲み歩いていました。
マットレスを手に入れたことで、住所不定のような生活はさらに加速していきました。
こうして、わたしはヒッピー会社員となり、友人はヒップスターの聖地アメリカへと旅立っていったのです。

