1994|渋谷・原宿「遠くで見ていたこと、近くで見えること」
【 不可抗力 】

ある日、社長や先輩達と渋谷の居酒屋に飲みに行きました。

どんな流れだったのか覚えていませんが、みんなほどよく酔っ払って、2軒目(もしかしたら3軒目)へ向かう途中のことです。

当時、社長はボクシングジムに通っていて、「寸止めするから、そこに立ってみて」と言いながら、わたしの顔の前でジャブを繰り出してきました。

ジャブの風圧を感じるたびに「うわぁ、風来たー」と、こちらも面白がっていたのですが、何回目かのジャブが、わたしの口元に当たってしまいました。

咄嗟に社長は「本当にごめん、大丈夫?」と気遣ってくれたのですが、運悪く社長の拳がわたしの犬歯に当たってしまったらしく、拳から血がダラダラと流れています。

翌日、社長が病院に行くと、その傷が化膿してしまったようで、左手は包帯でぐるぐる巻きになっていました。

店に遊びに来た社長の友人達は、その包帯を見るたびに「えー、どうしたの?」と心配そうに反応します。

そのたびに、なぜかわたしが加害者みたいな空気になってしまい、とりあえず「(その節は)スミマセン……」と肩をすくめてみます。

すると社長が経緯を説明しながら、「タカハシの菌は強力だからなぁ」と冗談を言って、その場は笑い話になりました。

まぁ、「バイ菌」くらいでイジってもらった方が気分的には楽なのですが、一日も早く包帯が絆創膏になってくれないかなぁ…

社長の左手を見るたびに、そんなことを考えていました。

あの頃は、社長の左手の包帯が絆創膏に変わる日を、誰よりも待ち望んでいた気がします。

 

【 メンズのプラダ 】

ある日、社長がヨーロッパの買い付けから帰ってくると、パンパンに膨らんだダッフルバッグから、黒い洋服や数足の靴が出てきました。

そこに入っていたのは、プラダのメンズの洋服と靴でした。

日本では少し前から黒いプラダのナイロンリュックが流行していて、街中ではプラダのリュックを持った女性をよく見かけました。

しかし当時、プラダの洋服はまだそれほど注目されておらず、ましてメンズの洋服など日本ではほとんど見ることがありませんでした。

どうやらヨーロッパではすでに展開されていたようで、社長はそれらを買い付けてきたのでした。

洋服はバッグと似たナイロン素材で、ファスナーの引き手にはプラダ特有の台形の型押しレザーが使われています。

また、入荷した数足の靴は、トゥの部分がスクエアになっていました。

後に一般的になったスクエアトゥのビジネスシューズの先駆けだったように思います。

これらの入荷を知ると、知り合いのスタイリストの方が見に来てくれて、リースや購入をしてくれました。

さらに雑誌に掲載されると、電話での問い合わせも殺到しました。

中には、目当ての商品が手に入らなければどうにかなってしまう、と訴える人もいました。

一点モノばかりだったので、願いは叶わなかったと思いますが、その熱量には圧倒されました。

その後も、求心力のある洋服を何度か目にしました。

流行はいつか過ぎていきます。

それでも、時代の空気をまとった服には、人を夢中にさせる何かがあるのでしょう。

あの頃のメンズのプラダは、まさにそんな存在でした。

 

【 雑誌掲載 】

この頃から、わたしは雑誌に掲載される機会が増えてきました。

ほとんどは、ショップ紹介の脇に顔写真が載ったり、店の商品を着た全身写真と一緒に、おすすめの商品や店の紹介文が添えられているような小さな扱いでした。

それでも、高校生の頃から夢中になってファッション誌を読んでいたわたしにとっては、夢のような出来事でした。

それまでは、雑誌によく出ている人を見るたびに、「雑誌に出てる、あの人だ!」と、後光が差しているように感じていました。

けれど、実際に自分がその立場になってみると、当然ながら、自分から後光が差しているとは感じません。

こうして、そんな幻想が少しずつほどけていきました。

後光が差して見えていた人たちも、近くで見ればみんな普通の人でした。

憧れの人も、有名人も、ブランドも。

幻想が消えたというより、少しだけ現実が見えるようになったのでしょう。

そして、後光の向こう側にあるものが、少しずつ気になるようになっていきました。

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