1995|原宿「 価値観を変えるブランドたち 」
【 良質なプリントデザイン 】

原宿店にも、新しいブランドが並ぶようになりました。

ひとつは、すでに原宿店の主軸となっていたブランドデザイナーの紹介で取り扱いが始まった、インディペンデントのTシャツブランドです。

ゴシック調の大きなロゴに、ターゲットマークを思わせるブランドネーム。存在感のあるピスネームや厚く刷られたプリント、映画のキャラクターをモチーフにしたグラフィック。そのどれもが、当時のブランドTシャツとは一線を画していました。

雑誌のスタイリストからの評判も良かったのですが、それ以上に印象的だったのは、掲載される前から店頭で次々と売れていったことです。

当時は、多少デザインに差があっても、ブランドの力で売れるものだと思っていました。しかし、このブランドを見て初めて、プリントデザインそのものに人を惹きつける力があるのだなぁと、実感しました。

 

【 ザ・カリフォルニアなブランド 】

しばらくすると、今度はLA在住の日本人デザイナーが手掛けるブランドも入荷して来ました。

当初は数字の「9」が付くブランド名で活動していましたが、その後、爆発的な人気を博した別ブランドと名前が重なったことから、日本のアニメに登場するマシンの名前へと変更していました。

その服は、日本のストリートブランドとは全く違う切り口に感じました。

ローライダーやチカーノカルチャーを彷彿とさせる、西海岸らしい雰囲気です。ヒップホップとはまた違う、大人でも自然に着られるルーズなシルエット。そして、チェッカーフラッグ柄のシャツやショーツなど、日本のブランドならあまり踏み込まないデザインを、違和感なく取り入れていました。

まさに、ウェストコーストの空気をそのまま洋服に落とし込んだような、稀有なブランドだったと思います。

後にデザイナーは活動拠点を東京へ移しますが、その世界観の面白さを本当に知るのは、もう少し先のお話です。

 

【 中国生産のメーカー 】

当時、その(カリフォルニアンな)ブランドの生産を担当していたのは、赤坂に事務所を構える商社の人でした。

彼自身も、中国生産を活用したオリジナルブランドを企画していました。

当時、中国生産という選択肢は、まだドメスティックブランドではほとんど注目されていませんでした。日本製でさえ、海外ブランドのような完成度を表現できるメーカーは少ない時代です。

そんな頃に、彼は商社ならではのネットワークを活かし、生地や付属、加工などに工夫を凝らしたカジュアルウェアを作っていました。

縫製には当時らしい粗さもありましたが、一着に盛り込まれたギミックの多さは群を抜いていました。それでいて価格は、シンプルな国産ブランドよりも手頃だったのです。

原宿店でも宣伝らしい宣伝はしていませんでしたが、商品は入荷するたびによく売れていました。

わたしの周囲では、まだ欧米ブランドを買うことが当たり前でした。中国生産のブランドに目を向ける人は、ほとんどいなかったと思います。それでも、コストパフォーマンスを活かして面白いものを作れば売れる……

そんな時代が、少しずつ近づいていたのかもしれません。

この商社の人は、後に渋谷でセレクトショップを立ち上げます。その店が全国へと広がっていくのですが、それについては、どこかのタイミングで触れたいと思います。

 

【 原宿店の新しいバイト達 】

勢いあるブランドの取り扱いと並行して、ショップオリジナルのブランドも雑誌掲載などで有名になっていきました。全国への卸先も着実に増えていきました。

そんな変化から、原宿店の販売要員と、わたしの営業アシスタントとして、新たに二人のアルバイトを迎えることになりました。

当時はお店にスタッフ募集の貼り紙をするのが普通でしたが、すぐに応募が集まりました。

こうして入社したのは2人、ひとりは古着店から移ってきた、サラサラのロングヘアーが印象的な青年。もうひとりは、周囲では見かけないマンチェスターロック風の装いで、優しさと誠実さを感じさせる青年でした。

ふたりが採用されたことで、身内ばかりの集まりから、徐々に会社としての組織に変わっていきました。

 

ここからわたしは、部下と向き合う難しさに直面し、日々自問自答を繰り返しながら歩いていくことになります。

それは、好きなことを追いかけるだけでは、前へ進めなくなったことを意味していました。

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